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宣教師ヴァリニャーノによる日本語・日本文化学習と教育 -歩み寄りと相互理解を目指した巡察師の精神-

第266代ローマ教皇に現在のフランシスコ教皇が決定した際、史上初のイエズス会出身者であることが注目されました。イエズス会はカトリック教会の修道会で、日本でも著名なフランシスコ・ザビエルらによって創設されました。今から約500年前に日本にはじめてキリスト教を伝えたことでもよく知られています。

今回は、キリスト教伝来から三十年後の1579年に来日したイエズス会宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに着目し、彼の目指した歩み寄りと相互理解の日本語・日本文化の学習と教育についてご紹介します。

名門貴族の子の挫折と神による導き

アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1539年にイタリアのナポリ王国キエーティで生まれました。その後、トータルで十年を過ごすこととなる日本の地までは直線ですら9,500kmも離れた場所です。しかし、奇しくも彼の人生に関わりを持つ織田信長(1534-1582)や豊臣秀吉(1537-1598)、そして、徳川家康(1543-1616)もまた、時を同じくして日本で誕生しています。

ヴァリニャーノはパドヴァ大学で法学を学び18歳で博士学位を取得しました。パドヴァ大学は1222年に創立されたヨーロッパで最も古い大学の一つで、かのコペルニクスが医学を学び、ガリレオが数学を教えもしたイタリア屈指の大学です。ヴァリニャーノ家は名門貴族で時の教皇とも親交があったことから卒業後早くしてローマに職を得ます。しかし23歳のころ、人生を一変させる出来事が生じます。女性とのいざこざの末、相手に重傷を負わせヴェネツィアに一年半追放されてしまったのです。ヴァリニャーノは大きな挫折と罪の意識に苛まれます。そして、神の導きにより生涯をかけて償うことを決意します。
事件から四年後、ヴァリニャーノはイエズス会に入会し専門機関で学んだ末、司祭に叙階されます。そして、1573年には日本が管轄地域に含まれる東インド管区巡察使に任命されることとなります。ヴァリニャーノ34歳の時でした。

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東インド管区で直面した課題

この“東インド”管区という名称から、「なぜ日本なのか?」とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。東インド管区とは、希望峰から見て日本に至る東洋地域までを指し、そこには、エチオピア、ダマン、モルッカ諸島、中国、インド、マラッカ、マカオ、日本等が含まれます。本管区はイエズス会の所管区中でも最も広く、巡察使はイエズス会の最高位聖職者である総長の名代として管区内における宣教事業の推進や困難への対策、会憲遵守の徹底、会員間の連絡促進、総長への報告などにあたります。

1573年、ヴァリニャーノはジェノヴァを船で出発し、まず、インドで三年間の巡察を行います。その後、マラッカを経てマカオに入り、そこで、多くの課題に直面しました。まずもって、教理を教え広めるためには現地の人々の信頼を得なければなりません。そして、現地で活動するには、さまざまな交渉や手続き、為政者との交流も必要です。さらには、人々に伝わる形で説教してゆく必要があります。そこには、相手を理解し、コミュニケーションするための言葉と文化の知識と運用力が欠かせないのです。ヴァリニャーノは派遣されてくる宣教師たちにも中国語学習を指示し、イエズス会士による中国文化および中国語の理解を重視しました。

初来日とイエズス会内での不和

ヴァリニャーノが祖国を出て宣教活動を始めた16世紀後半のヨーロッパにとって、日本は遥か最果ての地でした。渡航そのものが難しく、実際、ヴァリニャーノの前任者はマカオから日本への航路で不幸にも遭難死を遂げています。一方で、日本ではフランシスコ・ザビエルが1549年にキリスト教を伝え、ルイス・フロイスが1569年に織田信長に会見し、キリスト教伝播の興隆を迎えた時期でもありました。記事の冒頭に掲載した南蛮屏風のように、日本が外国文化と出会い取り入れようとした黄金期ともいえます。

こうした動きは滞在する宣教師が書状にまとめ、船の難破や紛失に備え複数の写しが発出地や経由地で作成されながら、別々の船でローマへと届けられました。ヴァリニャーノも巡察管区内の赴任地から日本へ想いを馳せ、多くの宣教師を日本へ派遣したり、現地で日本語を学ぶことのできる体制整備指示したりしました。

そして遂に、1579年7月25日、ヴァリニャーノは島原半島南端の口ノ津に到着し初来日を果たします。フランシスコ・ザビエルの活動開始から三十年が経過し、一説には日本のキリスト教徒は十万〜十五万人に達していたともされます。ところが、九年先に来日していた現地布教長フランシスコ・カブラルによる宣教手法はヴァリニャーノの理想とはかけ離れていました。しきりに言葉と文化の学習の必要性を訴えるヴァリニャーノに対し、カブラルは次のように回答しています。

私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民を見たことがない。*1
貴師が文法を学び、または学習によって、そんなに容易に教えられると思っているのは、日本語を知らぬからである。何故ならば、才能のある者でも、告解を聴くのに少くとも六年はかかり、キリスト教徒に説教をし得るには十五年以上を要する。*2

こうした考えは、日本へ派遣されてくる宣教師と日本人信者、現地支援者との間にも不和をもたらす結果となります。ヴァリニャーノはイエズス会総長に対し、日本人の能力や気持ちが汲み取られることなく従僕のように扱われたり、低級な民族として蔑視されたりしており、キリストの道を志す者にすら、日本人という理由でラテン語やポルトガル語、神学の知識が授けられていないと報告しています。人々の心は離れ、宣教師たちを嫌悪さえするようになりました。ヴァリニャーノは自分の意見が日本での経験不足を理由にカブラルには全く受け入れられないことに苦労します。

このように、ヴァリニャーノがまず日本で直面した問題は、図らずも同じイエズス会内部での反発や無理解であったのです。

ヴァリニャーノの観た日本

労苦はあったものの、実際に自分の目で観た日本社会や文化への感動、そして、なによりも実際に対面した日本人へのヴァリニャーノの期待は非常に大きいものでした。

有能で立派に教育を施されているので、我々の聖なる法に関する諸事を正しく理解し、東洋全域の中で最良のキリスト教徒となるには、最適な国民なのである*3

ヴァリニャーノは日本へ派遣されてくる宣教師たちが日本の文化や慣習を理解することができるよう書簡やまとまった冊子に記録を行います。『日本の住院に居る神父たちのための指南』や『礼法指針』をはじめ、詳細な紹介、さらには適応するための留意点が記されました。また、総長等に対しても率先して日本の状況を報告しました

『礼法指針』には、宣教師たちの威厳を損なわずに日本の人々と打ち解け、宣教を行うための7つの視点による礼法が記されています。具体的には、1)日本人との交際方法、2)信者を打ち解けさせる方法、3)外部者との挨拶、4)宴席での作法、5)周囲の住民たちとの接触作法、6)使者や目上の人物への接待や贈物について、7)教会建築にあたっての方法です。ヴァリニャーノの記述をいくつか見てみましょう。記述中の「カザ」は修院を意味し、「イルマン」は司祭職にあるパードレを補佐する修道士を意味します。

尊敬ないし親愛の情を示すために、小者(小姓)、ないしカザの使用人たちの担当する仕事、すなわち履物を差し出したり、客人をおおうために傘をさしてやったりすることは、相手がたとえ大領主や国王であるとしても、やらないように心掛けるべきである。というのは、この種のことは家来たち自身でさえもその国王に対してしないことなのであるから、イルマンも絶対にやってはいけないのである。*4

すべてのカザには、清潔で、しかもよく整頓された茶の湯(湯を飲む場所)を設け、またカザにいつも住んでいて、しかも茶の湯についてなにがしかの心得のある同宿または他のだれかを置かなくてはならない。殊に立派なひとびとの集まるところではそうである。そして訪問者の身分に応じて接待を行うために、二、三種類の茶(ある種の草)、即ちひとつは大変上等なもの、その他はこれより質の落ちるものを備えなくてはならない。*5

誰であろうと土産をもって来た男女に対しては、そのひとが持って来た土産を自分の前に置いて迎え、それを褒め、それに対して謝意を示さねばならない。そしてもし贈物が餅とか、果物とか、またはこれに似たすぐに食べられるものであるならば、パードレは持って来た人の前で、そのなにがしかを手に取って食べなくてはならないし、その場合これをその場に居合わせた他の連中すべてに対してと同様に、持参者自身にも分けてやる必要がある。*6

日本にあっては、人々が礼法においてうまく振舞えるように、三つの層が考えられるということを心得ておかねばならない。第一の層は目上の者の層であり、第二は同等の者のそれであり、第三は目下の者のそれである。これらの層はそれぞれが高低の多くの段階をもっているので、各層ともに幅をもっている訳である。なぜならば、一人の貴人は他の貴人より地位が高く、後者はまた別の貴人よりも高くこうして上がって行って、その貴人が家来として仕えている彼自身の主君である人にまで達するのである。だから、一人の男が他人と付き合おうとすれば、もし相手が自分の地位よりも高い段階にあるならば、その相手の地位がどれだけ高いか考慮しなくてはならない。*7

とても16世紀末に書かれたものとは思えない、実に活き活きとした交際術が描かれています。そしてまた、日本の人々や文化に対する尊重の眼差しが感じられます。

歩み寄りと相互理解の日本語・日本文化学習と教育

このような考えは、先に訪れていたフランシスコ・カブラルとは異なるものであり、また、当時の趨勢からすると極めて進歩的な考えに立脚したものでした。

私自身としてはこれらの[礼儀作法]を守ることにおいて、未だかつてなかったほど忍耐と克己の機会を経験した。そして我々の会員の指導にあたって、彼らをこのような順応へ導くほどむずかしいことはない。ところが、この点について今まであまりにも欠けていたので、日本において多くのことは不成功に終わった。私の意見では、もしこの順応の方針を守ってきたならば、キリシタンの数は現在よりも四倍であり、それもずっと良い信者であろう。この三年間の経験でわかったのは、もしこの点について何らか改正を行った場合、どんなに成功したかということである。*8

「順応」と書かれている方針は、一方的に宣教師が日本人を教化すれば良いというわけではないことを示しています。威厳や尊厳を保ちつつも、相手を知り、相手の文化や考えに合わせようとする姿勢です。そこには、歩み寄りと相互理解の日本語・日本文化学習と教育のあり方が見て取れます。

そして、志ある日本の人々もまた自分たちとともに学ぶことのできる機会や場を積極的に設けていきます。ヴァリニャーノは日本の中でイエズス会員を養成することができる機関として1580年に臼杵で修練院(ノビシャド)を開設し十二名の修練者を入院させます。そこでは、日本人も外国人もともに学ぶことができました。さらに、同年、修練の期間を終えた神学生のために府内に神学校(コレジヨ)を設置しました。また、小神学校(セミナリヨ)を開設し将来の司祭や修道士育成のための初等教育を行いました。

こうした活動には、現地の有力者の理解と手助けが必須です。ヴァリニャーノは、大友宗麟などの九州の諸大名を教化し、大村純忠との会見では長崎・茂木両港を知行地として受ける契約を結んでいます。そして、当時絶大な権力を有していた織田信長との出会いはヴァリニャーノの活動をさらに力強く後押ししました。1581年、後に信長が死を迎える日蓮宗本能寺で初面会を果たし、二人は意気投合し交流が始まります。

加えて、活動には資金も必要となります。イエズス会による支援だけでは十分でなく、さまざまな工夫を行いました。インドに土地を購入し、その収益を日本のセミナリヨやコレジヨ運営の経費にあてました。また、マカオの政府との交渉により日本貿易の利益の一部を布教事業のために受け取ることも実現しています。さらに、大村純忠から長崎・茂木両港を教会知行として受け、入港船舶の停泊料で活動経費を捻出しました。

学生時代の法律の知識や、それまでに赴任した地域での経験、培った人脈、をフル活用し理念を実現させていったのです。

暗雲と晩年

日本での活動の成果をローマに知らせ、より多くの支援を受けること等を目的にヴァリニャーノは天正遣欧少年使節のローマ派遣を企画します。使節派遣には、日本人側にも効果があることを書簡にしたためています。

これは日本人がヨーロッパにおいて知られるためにも、また、彼らが我がキリストの教えの偉大なることや(教皇)聖下ならびに他のヨーロッパ諸侯の栄華と威厳を知り、貴宮廷やローマの宮廷を見て日本へ戻った後、その見聞について証言し、(日本)国民が我らの望みと教えの何たるかを理解する上で有益なことと我らには思われる*9

日本人が直接ヨーロッパの都市を訪問することで日本をヨーロッパに知らせ、また、彼らがヨーロッパ各地を見聞し日本で証言することで生まれる作用を期待していたことがわかります。使節団のヨーロッパでの活躍や感動的な出来事、帰国時に持ち帰った活版印刷機のもたらした日本語教育上の目覚ましい効果は別の機会にまた紹介したいと思いますが、ヴァリニャーノは、1982年に少年使節らとともに、日本を後にします。インドのゴアまで使節に付き添い、そのままゴアで活動します。
しかし、このヴァリニャーノが日本を離れた時期に日本の状況は瞬く間に変わってしまいました。主だった出来事を年表で見てみましょう。

離れている間の一時期に状況好転の兆しはあったものの、1596年に、サン=フェリペ号事件が起き、二十六名もの殉教者を産むきっかけとなりました。ヴァリニャーノは1598年に生涯最後となる三度目の来日をし、ここでも秀吉と会見しますが、直後に秀吉は亡くなってしまいます。このことは、日本の政治情勢の不安定化につながり、ヴァリニャーノは1599年に他の宣教師たちとの疎開を余儀なくされています。

このような目まぐるしい戦乱の中で、1587年に秀吉がキリスト教の宣教制限を表明し宣教師の国外退去が命じられました。その後に展開された他の禁教令に比べればまだ比較的穏やかなものでしたが、状況の悪化は否めません。ヴァリニャーノは再来日中の1591年に秀吉と会見しましたが、そこでも禁教令は撤回されませんでした。悪化する状況を見たヴァリニャーノは、セミナリヨを雲仙山脈の村に移転させ、加津佐のコレジヨと印刷所、大村の修道院も天草に移転させ1592年に日本を離れます。

1600年、関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は強大な権力を手中に収め、その後の260年間続く幕藩体制確立の礎を築きます。家康は、当初はキリスト教に対して寛容な姿勢を見せていましたが、最終的には徹底的な弾圧がなされます。ヴァリニャーノはその結末を見ることなく1603年にマカオへ渡り、三年後の1606年1月20日に客死しました。

「人を守る者」の精神

ヴァリニャーノが築いた教育施設も閉鎖を余儀なくされ、19世紀の開国期までほぼ壊滅状態となりました。しかし、日本におけるキリスト教の伝播のみならず、ヨーロッパにおける日本理解の促進、西洋文化の日本への紹介、国外との交易促進に果たしたヴァリニャーノの功績は大きく、また、歩み寄りと相互理解を目指した活動における日本語・日本文化学習と教育は、今日にも示唆深い先進性を持つものでした。

課題を把握し、自らの知識と経験を活かしたアクションプランを立て、周囲との相互理解を通した交流と説得を続けながら政治・経済・文化のあらゆる面で活動し理想の実現に漕ぎ着けてゆく。古典ギリシャ語で「人を守る者」という意を持つ“アレッサンドロ”の名を両親から授かったヴァリニャーノの精神とその生き様は、“コロナ後”に向かう我々に新しい日本語教育を志向する勇気と光を与えてくれていると感じられるのです。

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Alessandro Valignano(アレッサンドロ・ヴァリニャーノ)

1539年、イタリアのナポリ王国キエーティで生まれる。パドヴァ大学で学んだ後、1566年、イエズス会入会。1570年、司祭叙階。1573年、東インド管区の巡察使を任命され、生涯に3度の来日を果たす(第1回1579-1582, 第2回1590-1592, 第3回1598-1603)。累計十年間の滞在と、周辺諸国・地域での活動の中で、日本におけるキリスト教布教に尽力し、セミナリヨ、コレジヨ、ノビシャドといった教育機関の拡充にも寄与した。また、天正遣欧少年使節の派遣に携わり、使節の帰国に際して活版印刷機をもたらしいわゆるキリシタン版の出版を実現させた。日本におけるキリスト教の伝播に加え、宣教師等の日本語・日本文化の学習と教育、ヨーロッパにおける日本理解の促進にも多大な貢献を果たした。1606年、マカオにて病没。

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執筆/田中祐輔

筑波大学と早稲田大学大学院で日本語教育学について学び、国内外の機関で教鞭を執る。現在、青山学院大学文学部准教授。主な著書に『令和3年度日本語教育能力検定試験合格するための本』(分担執筆・アルク)、『文字・語彙・文法を学ぶための実践練習ノート』(編著・凡人社)、『上級日本語教材 日本がわかる、日本語がわかる』(編著・凡人社)、『現代中国の日本語教育史』(単著・国書刊行会)、などがある。主な受賞に、2018年度日本語教育学会奨励賞、第32回大平正芳記念賞特別賞、第13回児童教育実践についての研究助成優秀賞、第14回キッズデザイン協議会会長賞、などがある。


※科学技術振興機構 researchmap:https://researchmap.jp/read0151200/
※研究室:https://www.facebook.com/AGU.TANAKA.Lab/

*1:ヴァリニャーノ著(松田穀一・佐久間正訳:1965)『日本巡察記』桃源社、p44

*2:ヴァリニャーノ著(松田穀一・佐久間正訳:1965)『日本巡察記』桃源社、p53

*3:ヴァリニャーノ著(高橋裕史訳:2005)『東インド巡察記』平凡社、p175

*4:ヴァリニャーノ著(矢沢利彦・筒井砂訳:1970)『日本イエズス会士礼法指針』キリシタン文化研究会、p60

*5:ヴァリニャーノ著(矢沢利彦・筒井砂訳:1970)『日本イエズス会士礼法指針』キリシタン文化研究会、p68

*6:ヴァリニャーノ著(矢沢利彦・筒井砂訳:1970)『日本イエズス会士礼法指針』キリシタン文化研究会、p70

*7:ヴァリニャーノ著(矢沢利彦・筒井砂訳:1970)『日本イエズス会士礼法指針』キリシタン文化研究会、p88

*8:ヴァリニャーノ著(矢沢利彦・筒井砂訳:1970)『日本イエズス会士礼法指針』キリシタン文化研究会、pp46-47

*9:ヴァリニャーノ著(松田毅一監訳:1991)『十六・七世紀イエズス会日本報告集第Ⅲ期第6巻』同朋社、p172