NJ

日本語ジャーナル:日本語を「知る」「教える」

追悼・江副隆秀先生後編―②日本語で社会に貢献したいという思い

2024年12月18日に逝去された新宿日本語学校校長江副隆秀先生について、思い出を息子さんの江副カネル隆二さん、森恭子先生に伺う追悼インタビューの後編です。江副先生は独自の教授法を開発されただけではなく、日本語教育界の発展のために尽力されてきました。その原動力はどこから来るものだったのでしょうか。(取材:仲山淳子)

面白いものを作りたい、新しい技術を知りたいという気持ち

――江副先生は教科書だけでなく漢字のCDロムも作っていらっしゃるんですよね。例えば火のイラストからぐわんとモーフィングで変化して「火」の漢字ができるみたいな教材ですが。

隆二:そうですね。自分でモーフィングを学んでコンテンツを作りました。2000年前半のことです。新しい技術を使って面白い教材を作りたいという気持ちが強かったようです。

――そういうアイデア、新しい技術を使って面白くという発想はどこから出てきたのでしょうか。

隆二:大学生の時は新聞学科で、もともと作ることが好きだったようです。自分でものを作るという趣味がありました。そして一生懸命、学習者のために面白いものを作りたいという気持ちがあったんです。

森:絵も上手ですし。デジタルハリウッドのスクールでも学んでいらっしゃったんですよね。

隆二:また新しい技術などが出ると、それを知りたいという気持ちも強かったようです。

森:そして作り始めると、夜も寝ずに作業されます。

――でもお葬式で娘さんたちにお話を伺ってびっくりしたんですけど、それだけ仕事に熱中されても家族サービスはなさっていたということでしたね。お子さんたちをディズニーランドに連れて行ったり。

隆二:そうですね。他の家庭と比較をすると少なかったのかもしれませんが、いろいろなところに連れて行ってくれました。ディズニーランドで私たちが乗り物に乗っている間、カフェでパソコンを開いて仕事なんてことはありましたが。

早い時期からCEFRを意識

――ご自身が開発された教授法を広めるために精力的に活動もされていたと思います。

森:そうですね。まず新宿日本語学校の養成講座では基本的な教え方として江副式教授法を教えていました。また国内外での研修会やセミナーなども積極的に登壇されていました。フランスの日本語教師会やブラジルの日本語教師会には毎年呼ばれて、私もお供したことがあります。ブラジルは3泊5日ぐらいの強行スケジュールでしたが。

その他、香港、台湾、シンガポールなどで提携している学校で講演をなさったり、オーストラリアやスペインを訪れ学会で発表なさったりもしていました。アメリカや中国の大学でコースを受け持たれたこともありました。

その中でも特にフランスではパリで「エクスポラング」という語学学習のフェアが行われていましたが、そこに2004年ぐらいから毎年ブースを出していました。日本からはうちの学校だけでした。それで使命感のようなものがあったようです。

そういえば、当時校長先生はフランスでたくさんの語学の教科書を購入していましたが、そこにはすべてA1とかB1とか書いてあるわけです。すごくCEFRについて言っていました。でも私たちの意識が低かったんです。あんなに校長が言っていたんだから、もうちょっと私たちも当時から興味を持って取り組んだ方がよかったと今となっては思います。でも私たちはどうしても目の前の仕事に追われてしまう。

「ねえ、僕がいったでしょう? 大事なんだよ」と天国から言ってるような気がします。

日本語教育以外へのひろがり

――「早い」ということでいうと、ご自身の教材をeラーニング教材にしたり、アプリを作ったりということもなさっていましたね。

森:ええ。NTTコミュニケーションズとのコラボレーションでした。

――日本語教育以外に、ろう教育にも江副式教授法が取り入れられていると伺ったのですが。

森:それも向こうからいらっしゃったんです。どこかで校長先生の教授法を見つけてきたらしく、ろう教育の専門の先生が訪ねて来られました。

その先生、曰く「ろうの手話だとどうしても助詞が教えられない。だから、『私、ケーキ 好きです』は言えるけど、『ケーキが好きです』は作文にすると書けない。他にたとえば動詞の形も「食べます」と「食べました」の区別をなかなか教えられない。しかし江副式で示すと前の話なのか、後の話なのか、動詞で「行きます」なのか「行きました」なのか子どもたちも分かるようになる」と。

江副式のカードを使うことによって助詞も分かるようになったそうです。

他には小学校の国際理解教育の研究授業などに呼ばれていったり、TOSSという全国の学校教育の先生方の組織に呼ばれて発表をしに行ったこともありました。

社会の出来事にすぐに対応する

――江副先生は社会的な出来事に非常に敏感であったように思います。それはインドシナ難民の方々を受け入れた時から始まっていると思いますが

隆二:難民の方は授業料半額というのは今も続いています。それからウクライナからの避難民の学生は無料にしました。そのウクライナ避難民への支援で文化庁から表彰もされました。

東日本大震災の時も私と校長とですぐに石巻に行ったんです。車で行って、車中泊でした。石巻の現状を見て、仙台の日本語学校の訪問もしました。うちの学校の卒業生もこの地域にいたので訪問しました。

森:あの時、予定していた卒業式はできなかったけれど、2階の大教室でささやかな卒業式をしましたね。

実は4月に入学予定の香港の学生が100人ぐらいいたんですが、震災の影響で来日できませんでした。それで学生が来られないなら、先生が行きましょうということで先生を派遣して香港でクラスを開いたんです。提携している香港の学校に新宿日本語学校のクラスと同じペースで進む同歩クラスがあったので、震災後落ち着いた頃に学生はスムーズに入学できました。

――その発想が凄いですね。こっちに来られないなら、じゃあ教えに行こう! という。

森:それから他の学生たちも三々五々戻ってきて、学校はある程度持ちこたえていました。

コロナ禍での対応

――日本語ジャーナルでインタビューもさせていただきましたが、コロナ禍で学生が登校できなくなった時、オンライン授業への切り替えも早かったですね。

隆二:実はコロナ以前から校長にGoogleのシステムを入れるように言われていました。それで技術的なものは既に入っていました。しかしそれまでは一生懸命先生方に教えたとしても、あまりピンとこないし、校長と私の趣味みたいな感じでした。初めは任意的な導入でしたから。先生によっては何かの宿題の時に使ってみようとか、少しずつクラスに入れていました。それでコロナになったとき、今まで導入してきたツールをそのまま使いましょうと。だから下地があったんですね。それはやはり校長の先見の明です。もちろん急な切り替えだったので、すごく大変ではあったけれども、比較的土台があったので導入しやすかったと思います。

まあ、かなり強制的だったので、ベテランの先生もみんなひーひー言いながらやっていましたが。

森:でも、あの強制力がなかったらIT技術は身についていなかったと思います。今では年配の先生もそんなの私にできるはずがないわよではなく、みんな普通にやっていますし。

日本語で社会にどう貢献できるか

――社会で何かが起きたら、すぐに対応するという姿勢は、どういうところからきているんでしょうか。

隆二:そうですね。ウクライナの避難民の学生の時も、学校が加盟している全学日協(全日本学校法人日本語教育協議会)から今ウクライナですごいことが起きているので支援しましょうという話がきたんです。校長はすぐに賛同して「じゃ、受け入れます」となりました。

そういうことも含めて、なんでしょう。ビジネスということはあまり考えない。社会に貢献できること。社会のためになることをしたいという思いが強いようです。

森:校長先生はもともと神父になろうと思って神学校に行っていらしたと伺っています。

隆二:日本語で社会にどう貢献できるかということを考えていたようです。とにかく困っている人がいたらすぐに何かをしたいという気持ちで。

森:大学で新聞学科だったので、ジャーナリスト的な気質がありましたね。校内新聞も作っていました。

隆二:そうですね。いろんなことをやっておけば何かにつながるという考えはあった。何かを狙ってやるというより、アイデアが生まれたら、とりあえずすぐやる。まず作ることが大切という考えです。

隆二:最近のことなんですが、校長はパラオ共和国に興味を持っていました。どうしてかというとパラオのある島(アンガウル州)の公用語はパラオ語と英語と日本語と定められているんだそうです。日本の憲法には日本語が公用語と書かれていないのに、世界で唯一日本語が公用語と書かれている島。それでなにか協力したいんだとたびたび言っていました。

校長にそう言われ「わかりました。じゃ、電話してみます。」と私が連絡をしました。いろいろ考えてパラオ人向けの奨学金をやったらどうかという話になりました。ちょうどその時、外務省の方でパラオとの国交樹立30周年イベントがあったんです。それで連絡して、奨学金を考えていますと言ったら、外務省の方が大使館の担当者に繋いでくださって、パラオに行ってきました。

さらに大統領が来日されることになり、お会いすることができました。そこで10月に独立記念イベントがあるということでパラオに招かれたのですが、校長の体調がその時、もうよくなくて行くことはできませんでした。それは本当に残念です。

校長は日本語関連のいろいろなことに貢献したいという気持ちもあるし、すぐやろうとします。で、意外とうまくいくことが多いんです。ほんとに電話一本で大統領にまでつながったんですから。

学校は6番目のこども

――江副先生は学校が6番目の子どもだとおっしゃっていたそうですが。

隆二:そうですね。子どもは5人で、仕事が忙しいけれども、週末とかはみんなのために時間をちゃんと作ってくれました。家族と一緒にいる時間は大事にしていました。そして学校も自分の子どものように思っていました。もしかしたらお気に入りの子どもだったかも。それはやはり最初から作って自分の赤ちゃんのように成長を見てきたからだと思います。

――学生たちについてはいかがですか? 江副先生の発案でゴールデンウィークのクラスを開講したとか。

森:そうですね。新入生は4月に日本に来たばかりなのに、すぐ5月に長い休みになってしまうとみんなどうしていいか分からない。だからちょっとその間、なにか普通のクラスではできないことをやってみないか?というお考えでした。実は私たちは初めすごく反対したんです。なんでゴールデンウィークに仕事をしなきゃいけないのかと。でも校長はどうしてもやる! 自分がやるから! とおっしゃいました。校長が一人でやるわけにもいきません。それで私が提案したのは、じゃあその期間は時給をアップしてくださいということでした。そうしたら校長がOKしてくれて実現しました。

蓋を開けてみると5日間で学生が延べ600人ぐらい来ました。そこでは校長の漢字クラスや道案内のクラス(教室を街に見立て、段ボールで建物を作って、実際にその街を歩く)、箸を使う練習もやりました。箸でチョコや飴を掴むんです。箸の使い方はペンの使い方に似ているんだと言っていました。

入学したばかりの学生は友達もいないし、どこに行ったらいいかも分からない。結局、学生の居場所づくりをしていたんだと思います。

もっと昔は、お正月に学校が休みだとどうしていいか分からない学生がいるからと、お雑煮を作って学生に振舞ったりしていたそうです。

11月5日は「にほんごの日」

――これも江副先生の発案で11月5日を「にほんごの日」と決めたとか。

隆二:一般社団法人日本記念日協会というのがあって、そこに登録しました。11は1が二本(にほん=日本)、それに5は(ご=5)だからということで。

――「にほんご」は語呂合わせですか。

森:実は校長先生はダジャレがお好きでした。この「にほんごの日」はみんなに相談もしないで勝手に決めちゃったんです。でもその日は先生方の研修会が行われて第1回は嶋田和子先生に講演をしていただきました。昨年は学生主催のイベントを行いました。

校長先生は日本語教育界にお仲間は多いです。1975年の時からいろいろな事件を乗り越えてきていますから。箱根会議や京都会議にも参加されていましたし。日振協のスタンダード作成や教師研修にも尽力されていました。

とにかくエネルギーのすごい方でした。子どものための教科書など一生懸命作られた多くの教材があるのですが、陽の目をみていないものもあるので、なんとかしていければと思っています。

取材を終えて

改めて江副先生のライフヒストリーを振り返ってみると、本当にエネルギーに溢れた方だったなと思いました。常識にとらわれない、とにかくやってみる。そんな精神は本当に勉強になりました。まだまだ日本語教育界を引っ張って行っていただきたかっただけに残念でなりません。心よりご冥福をお祈りいたします。

取材・執筆:仲山淳子

流通業界で働いた後、日本語教師となって35年。1990年から2017年まで新宿日本語学校でお世話になりました。8年前よりフリーランス教師として活動。