今回の「日本語教師プロファイル」では在日米国大使館日本語研修プログラム主任教官であり、『「読む」からはじめる日本語会話ワークブック』(アルク)の著者のお一人である森勇樹さんにお話を伺いました。現在のポジションに至るまでの冒険のようなストーリーに引き込まれました。
大学で日本語教育に出会い、日本語学校へ
ーー日本語教師になったきっかけについて教えていただけますか。
大学に入る時はなんとなく言語学を勉強したいなと思っていたんですが、実際に入って何を専門とするか迷いました。言語学なのか、英語学なのか。高校の担任の先生に、この大学なら英語の教職も取れるし、副専攻で日本語教育も取れるぞ、とは言われていたんですが。3年生の時に夏の集中講義があって、たまたま日本語教育の授業を取ったら、それが面白くて。日本語の先生という仕事があって、そういう道もあるんだということが具体的に見えてきた。そこから、自分は日本語教師になろうと専門を決めました。
ーー日本語教育が面白いと思ったのは、どういう点ですか?
その時の講義は心理学の観点から日本語指導を考えるという内容でした。言葉を教える時にそんなことまで考えるんだとびっくりしました。その後、私にとって一番面白かった授業は誤用分析です。学習者が書いた作文をみんなでどう添削するのか、何が間違っているのかを考えるのがすごく面白かった。所属したのは異文化間コミュニケーション学の研究室で、いろいろな研究テーマを受け入れてくれる先生でした。私は日本語教育における待遇表現指導についての基礎研究をしましたし、同じ研究室の同期は英語の発音指導がテーマでした。
その後、もっとちゃんと日本語教育について学びたいと思い、大学院に進みました。修士号を取って、いよいよ仕事を探さなければという時、ちょうど地元の専門学校に新しく日本語学科ができたんです。履歴書を送って、簡単な面接を受けたら、4月から常勤で働けることになりました。
日本語学校って新しい先生は初級ばかりやるイメージがありますが、そこでは同じ学生を入学から卒業までずっと教えていくやり方でした。その方が勉強になるからと。主任の先生も周りの先生も30歳前後と若くて、いろいろなことをやらせてもらいました。それがすごく良かったです。学生の日本語の成長を俯瞰的に見ることができました。その学校で3年ぐらい教えたのですが、自分の中でもう少しいろいろなことをやってみたい気持ちが出てきて、新しい仕事を探し始めました。
新しい経験がしたくてマレーシアへ
ーーそれでマレーシアへいらっしゃったんですね。
ええ。マレーシアでの新しい職場は国際交流基金高等教育招聘奨学金プログラムであるAYFプログラム(Asian Youth Fellowship Program)です。これは、ASEAN加盟国+バングラデシュの優秀な学部卒業生たちが日本政府の奨学金で日本の大学院に進学し、修士号・博士号を取得するというプログラムなのですが、当時はその渡日前の予備教育をマレーシアで行っていました。各国から選ばれた18人の学生をマレーシアに集め、日本語能力試験の2級レベルまで持って行くという約14か月の予備教育コースです。4人の常勤講師が日本語指導にあたるのですが、その一人が採用された私というわけです。
非漢字圏の学習者を1年ちょっとで大学院進学レベルまでというのは正直なかなかハードでした。学習者は20代から30代。国に奥さんと子どもがいる人もいて、家族に会いたいと涙したり、ストレスで体調を崩す人もいたり。でも、和気あいあいとした家族的な雰囲気のあるところでした。
そのプログラムで2年ほど働いた後、今度は同じくマレーシアで国際交流基金の海外派遣専門家の募集に応募して、今度はマラヤ大学で教えることになりました。そこも予備教育でしたね。そこで3年勤めたあと、ありがたいことに国際交流基金から声がかかり、今度はアゼルバイジャン共和国のバクー国立大学に派遣されることになりました。
マレーシアからアゼルバイジャン共和国へ
ーーアゼルバイジャン共和国ですか! 日本語を学んでいる方がいるとあまりイメージできませんが。
アゼルバイジャン共和国はカスピ海沿岸の国で、大きさは北海道よりやや大きいぐらいです。世界史でバクー油田について聞いたことがある方も多いかもしれません。その当時、日本人は日本国大使館勤務の職員やそのご家族を含めて40人ぐらいしか住んでいなくて、私が国でただ一人のネイティブ教師でした。そういう意味では日本語教育に関することはすべて私のところに来るので、大使館の文化広報担当官と連携を取りながら、いろいろなサポートをする機会がありました。
例えば、教育省から中等教育で日本語をやりたいという話が出たら、教育省の担当者と話し合いをして、3つの学校で実施すると決まれば、日本語を教えられそうな人を探して、先生になってほしいと頼み込み、それから共通カリキュラムを作ったり、教材の支援をしたり、みたいな。ですから基本的な業務は大学の学生への日本語指導と現地講師への支援でしたが、専門家として、国内のみならず、近隣諸国との連携も含めすべてを担当していました。
そんなアゼルバイジャンでの3年の派遣期間が終わり、日本に戻りましたが、その後再びマレーシアのマラヤ大学に今度は日本語上級専門家として派遣されました。
――ずっと海外で教えていらっしゃいますが、日本語教師を志したとき、そのような気持ちがあったのでしょうか。
いいえ、実は全然なかったんです。日本語を教えたいとは思いましたが、海外で、という気持ちは特にありませんでした。でもマレーシアに行って、弾みがついた感じです。
マレーシアでの3年半にわたる上級専門家の仕事が終わったとき、ちょっと日本語教育から離れて、別の仕事を探そうかとマレーシアでぶらぶらしていた時期もありました。ただ、うまくいかなくて日本で仕事を探そうと思い、ある仕事の募集に応募しました。
移動中にスマホで面接を受けて
ーーそれはどんな仕事だったんですか。
横浜にある米国国務省日本語研修所です。見つけてすぐに応募していたんですが、しばらく連絡がなく、ダメだったんだなあとあきらめていました。その頃、まだマレーシアと日本を行き来していた頃だったんですが、ちょうど日本の実家からマレーシアに戻るのに、前泊のため実家を出て大阪のホテルに向かっていた時、母から電話がかかってきて、なんかアメリカの大使館から電話があったと。なんのこと? と思いすぐに電話してみると、私が応募した仕事のことでした。
電話口で担当の方に「すごく突然なんですけど、今から面接のために横浜に来られますか?」と聞かれ「いや、無理です、無理です。明日マレーシアに戻る飛行機に乗るので」と言ったら、「じゃあ、今日はまだ日本にいらっしゃるんですね」と。
それで結局、スマホで面接を受けることになりました。路上だったので少し静かなところに移動して。まず、アメリカ人の所長と英語での面接がありました。周りの雑音にさえぎられることもあり、冷や汗ものでした。それから、日本語を教えている教官との面接があったのですが、まずメールと添付ファイルの資料が送られてきて、面接ではそれについて質問をするという説明が書かれていました。スマホで資料を読み終わったころ、ビデオ通話が。スマホの画面には、会議室のようなところが映し出されて、そこには面接官(日本語担当教官)がずらりと並んでいました。とにかくなんとか面接を終えましたが、これは確実に落ちたなと思いましたね。しかし、運よく合格して、採用が決まりました。
仕事内容はアメリカ人外交官のための日本語研修です。学習者の方は新たな日本での職務に必要な日本語力を身につける必要があり、コースの最後には国務省の試験を受けなければなりません。私はそれまでずっと予備教育をやってきて、いわゆるビジネスパーソンに教えたことがなかったので、ここでの経験はすごくいい勉強になりました。ほとんどプライベートレッスンに近い形で、教材も学習者のニーズに合わせて自分で作ってカスタマイズすることが多かったですね。私は現地採用職員で相手は正規の政府職員という関係性ですから、自分より格上の方に日本語を教える状況に若干気を遣うこともありました。日本語学校や大学のような教育機関で若い学習者を教えるのとは違って、カスタマーサービスのような配慮が必要だと感じましたね。
その1年契約の仕事が終わった後、今度はアルクさんからお話をいただいて、企業派遣の日本語講師として入社しました。営業の方から企業研修の話があるから模擬授業に行ってくださいと言われ、学習者の情報もほとんど得られない状態のまま、教材を自作して向かいました。
広い会議室に、大企業の執行役員である学習者と私を真ん中に、秘書室長と秘書の方、アルクの営業と日本語担当者の4名が取り囲み、何とも言えないプレッシャーを感じながら、30分の模擬授業をしました。冷や汗ものでしたが、結果的に案件を担当することになりました。その後もいくつかの企業研修を経験した中で、企業研修では学習者が先生を選ぶのではなく、その会社の人事の方や研修担当者が選ぶのだということに気づきました。その方たちにアピールできなければ、そもそも契約していただけないということです。日本語学校などで働いていた時は、学生が自分をどう見ているかしか考えませんでしたが、企業の日本語研修はそれとはまったく勝手が違っていて、それはそれで面白い経験でした。
現在の仕事で気づいたこと
ーー現在はアメリカ大使館で教えているということですが。
はい、アルクの仕事のあとで、米国国務省日本語研修所の募集にまた応募しました。今度は2年の契約がいただけたんですが、そこで1年ぐらい教えた頃、今度は東京のアメリカ大使館の中の日本語研修プログラムで今のポジションの募集が出たんです。それに申し込んで、無事に採用されました。
東京大使館は横浜の研修所とはまた違うスキームです。大使館の中で働く米国政府職員(国務省だけではなく、いろいろな省庁の方々)とその家族の方々に福利厚生の一環として日本語を学ぶ場を提供するという感じです。よく驚かれるのですが、私たちは多い時で100人を超える方々に日本語を教えています。ゼロ初級から上級・超級までいろいろなレベルのクラスを提供しています。
ゼロ初級のクラスは特にですが、媒介語である英語もよく使います。媒介語を使うと、学習者は気がついたことや知りたいことをなんでも聞いてくれます。直接法で教えていた時は、そういった質問を受けることがあまりなかったのですが、それは疑問をもっていても質問するすべがなかったからだと思います。ここでの授業では「あ、そういう疑問を持つんだ」とか「そう考えるんだ」といった面白い質問をよく受けます。英語母語話者と日本語母語話者の視点の違いについても、気づきを得ることが多く、勉強になります。
『「読む」からはじめる 日本語会話ワークブック』の制作時は、実際に話し合えるか検証するため合宿も
ーー著者のお一人である『「読む」からはじめる 日本語会話ワークブック』について教えていただけますか。
もともとは第一著者である吉川達さんが主宰されている「たどくのひろば」の活動から始まりました。多読の実践はたくさんの読み物を必要とするので、それをみんなで書きためていくという活動なのですが、著者の一人である佐藤淳子さんが作った読み物が非常に面白かった。それで吉川さんが、読むだけだともったいない、と授業で使ってみたんです。そうしたらすごく反応がよくて、これは面白いかもしれないということでアルクさんに持ち込み、教材化しましょうという話になりました。
読み物がある会話の教材というのは、そういうところから来ています。佐藤さんの「普通」というテーマの読み物は本当に面白くて、簡単な日本語で書かれているけれど実に深いテーマでした。知的で哲学的なディスカッションに発展する可能性のあるテーマ、それがこの教材のポイントです。
ーーそれぞれのテーマに、異なる三つの視点からの読み物があるのがいいですね。
最初に哲学的な深いテーマをリスト化し、それに読み物をそれぞれ三つという構成を考えました。それから自分の書きたい読み物を選んで、各自が書いていくという感じで。みんなで書いたものを突き合わせてみて、視点がかぶっているものがあれば、一つはボツにして、もう一つまた新しい視点の読み物を書く、ということもありました三つ別々の視点を提示する読み物というのが肝なので。最後に読み物が出来上がった段階で、タスクを作りました。そして、そのタスクで学習者が実際に深い話し合いができるかどうかを確認するために、この質問だったらあなたはどう答える? みたいにみんなで話して、話が盛り上がるかどうかを一つずつ確認しました。この作業はオンラインでは難しいということで、私たちは2日間の合宿もしたんですよ。合宿2日目とかはもうかなり疲れちゃいましたが、とにかくタスクすべてが話し合えるような質問になっているかどうかを一つずつ検証しました。
ですから、先日行ったサタラボのワークショップで、各タスクの設問をなぞるだけで話し合いが進みますと言っていただいたとき、うまく機能しているんだなとうれしくなったと同時に安心しました。
人間的魅力を磨いていきましょう
ーーこれからやっていきたいことは、ありますか。
私はどちらかというと行き当たりばったり。来るものは拒まずという気持ちでやっているので。何でもお話をいただいたら、時間が許す限りやってみたいと思っています。自分はこれまで本当にラッキーだったと思いますが、タイミングよくいろいろなところからお話をいただきました。ですから声をかけられたら基本的には断らないようにしています。やってみたら大変だったということもありましたけど、それも経験になるので。
また、今の職場で今年5年目を迎えました。ここまで同じところで長く働くのは実は初めての経験なんです。これまでは2、3年で環境が変わってきたので、もしかしたら今の職場もいつか飽きるかもと思っていましたが、離任・着任に伴う人の入れ替わりが常にあり、また人間的に素敵で魅力的な多くの方々とも知り合えるので、毎日が刺激的で全然退屈することはありません。
ーーこれから日本語教師になりたい人に何かアドバイスをお願いします。
アドバイスできるような立場でもないんですよ。でも、最近自分でも気を付けていることですが、自己研鑽のために研修会などに参加して、日本語教師同士で話すと、学習者のこととか教室活動のこととか、日本語教育の話題だけになることが多いんですね。でも本業の日本語教育とは別に、いろんなことに興味関心を持ち、話題が豊富だったり、深みのある話ができたり、最終的には人間的魅力が大切だなと最近つくづく思います。
今、若い方に日本語教師に是非なってほしいと思っているので、若い方に対するアドバイスなんですけど、日本語教育は楽しくて魅力的な仕事です。給料が……とか言われますが、日本語教師できちんと食べていく道もある。私自身も食べてこられたし。
SNSでは非常勤で日本語を教えていたが、授業準備のために夜も寝られないからやめましたとか、ネガティブな情報をよく目にします。確かに授業準備って最初は大変かもしれませんが、どこかのタイミングで絶対に楽になると思います。まずは続けることが必要です。また、少々下手な授業でもいいやって開き直ることも大切かもしれません。
その人に人間的魅力があれば学生は絶対についてきます。授業が上手い下手だけじゃない。学生がその先生を信頼して耳を傾けるかどうかというのが一番大きなところだと感じます。その辺を大切にすれば、若い人も職業として長く続けられるのではないかと思います。
取材を終えて
海外生活の長い森さんですが、実は日本の伝統芸能がお好きで、学生時代には文楽や能楽を習った経験も。現在は茶道を長く続けられているそうです。和服姿もとても素敵です。
取材・執筆:仲山淳子
流通業界で働いた後、日本語教師となって約30年。8年前よりフリーランス教師として活動。