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日本語教師プロファイル京谷麻矢さん―言語マイノリティのサポートを目指して

今回の「日本語教師プロファイル」では京都府にお住いの京谷麻矢さんをご紹介します。京谷さんは現在、大学で留学生に日本語を教える傍ら、中途失聴や難聴の方のための要約筆記者の仕事、そして会話パートナーとして失語症者のサポートをされています。日本語教育での歩みとともに、要約筆記をするに至った経緯や、現在の活動、更には今後の展望までお話を伺いました。

自分自身の存在で食べていける仕事を

――日本語教師になったきっかけを教えてください。

大学3年生の時、友人に日本語教師養成講座のカウンセリングを受けるんだけど、ついてきてくれない? と言われて一緒に行ったのがきっかけです。その時、あ、そういう仕事もあるのかと思いました。結局その友人は養成講座に入らなかったんですが、私は入ってみようかなと。もともと英語が好きで大学では社会学を専攻し、国際理解や国際交流に興味がありました。でも親に受講費を頼むのも、どうしようかと悩み、思い切って自分でローンを組んで受講を決めました。自分が話している言語について学ぶのは、たとえ就職に繋がらなかったとしてもいいことだろうと思いました。

その頃はバブルがはじけた後の就職氷河期で、仕事を見つけるのが厳しい時代でした。世の中の経済がぐちゃぐちゃで、当たり前だと思っていたこともひっくり返ったりしていたので、じゃあ、変わらないものは何かと考えた時、私が日本人であることだと思いました。日本人であるアイデンティティを活かしたもの、世界がどうなっても私がいる限り自分自身の存在で食べていけるのが日本語教師だと思い、日本語教師になろうと決めました。

 震災時に感じた後ろめたさをずっと心に持って

――そう決心して入った養成講座はいかがでしたか。

楽しかったです。いろいろな世代の方と勉強できましたし。ただ、私が養成講座に入ったのが1995年の1月で、さあ、これから始まるという時に阪神淡路大震災が起きました。

私は奈良に住んでいたんですが、大学にしばらく行けなかったり、友達も被災したりしました。養成講座の先輩たちは当時1月に行われていた日本語教育能力検定試験の受験準備中でしたが、試験会場であった神戸大学での試験が中止になり会場変更で少しパニックになっていました。

その時、養成講座で教授法を担当されていた先生が、「語学ができる人は是非神戸に行ってください。神戸にいる外国人がみんな困っています」と呼びかけました。言葉が分からないせいで炊き出しがもらえなかったり、情報が取れなくて不便な思いをしたりしていたそうです。

でも、私は行けなかったんです。神戸大学の中国人の留学生が亡くなったという話も聞いていたんですが、なんだか状況がよく分かっていなかったし、大学のレポートを出さなきゃとか自分のことで精いっぱいで動けませんでした。実はその時の思いが、今に至るまで私の中にあります。あの時に何もできなかったという罪悪感というか後ろめたさのようなものがあって、だからこそ今まで日本語教師を続けているのだと思います。養成講座で同期だった友人と最近会ったのですが、その人も同じように言っていました。

 日本語教師デビューはベトナムで

――大学卒業後は日本語教師に?

いえ、すぐには日本語教師になれなくて、とりあえず地元の企業に就職しました。ただ大学時代からの日本語ボランティアは続けていました。その頃は日本語教師の求人も少なかったですし、経験がないと学校では教えられませんでした。やっぱり日本語教師をしたいなぁと思った時、経験を得るために海外へ行かなきゃ! でも、どうやって行ったらいいんだろう? と。インターネットもない時代でしたから。ボランティアで行っていた京都市国際交流会館に世界の日本語教育機関の住所録みたいなのがあったんです。以前ベトナムに旅行したことがあり、雰囲気がよかったので、ベトナムに行きたいと思って、そこに載っていたベトナムの日本語教育機関全部にエアメールで履歴書と志望理由書を送りました。

そんなの普通返事も来ないですよね。でも一通だけ返事が来たんです。ホーチミン市にあるドンズー日本語学校からでした。受け入れてくれるというので、しばらくエアメールでやりとりをした後、ホーチミンに向かうことになりました。どんな学校か見たこともなかったので一か八かみたいな感じでしたけど。若いからできたんですね。

ベトナムでの経験が今につながっている

――ベトナムではいかがでしたか。

日本人の先生は会話と応用練習、ベトナム人の先生が文法説明をするというスタイルで教科書は「新日本語の基礎」を使っていました。

同じ母語の学生が30人、40人集まっている教室で、やはり母語が出てしまうことが多いのが少し難しいなと感じました。その頃のホーチミンはよく停電があって、暗闇の中で授業をしたのも今ではいい思い出ですね。

ベトナムで教えていた時、今の活動につながるような経験をしました。

ある日、見学をしたい人が来ているのでいいですか?と言われ、教室に入ってもらったら、その方は目が見えない方でした。視覚障害者に教えたのは後にも先にもその方だけなんですが、はじめ、どうしたらいいか分かりませんでした。板書しても見えないだろうし、なるべく発話して、チェーンドリルをするときも彼の名前を呼んで名指ししてからやるとか、工夫しました。でも、その方は日本語が上手だったんです。だから授業で全然違和感もなく困ることもありませんでした。結局、その後、彼がクラスに入ることはありませんでしたが、私にとってすごくいい経験になりました。学習者にはいろいろな人がいる。特性があっても学んでいいんだ。学ぶのは自由なんだ! と思いました。

日本語学校から大学院進学、大学や養成講座でも教える

――ベトナムから帰国後はどうされたのでしょうか。

大阪の凡人社へ行って求人の張り紙を見て、大阪の日本語学校で教えることになりました。その後、別の日本語学校でも教えるようになり掛け持ちで一生懸命日本語を教えていました。でも、それだけでは食べられないので、夜や週末にアルバイトもしていました。とにかく働いていましたね。

10年ぐらいそんな感じで働いていたのですが、このままでは収入が厳しいなと思って大学院に行くことにしました。大学院では応用言語学、第二言語習得を専攻し研究しました。養成講座で講師として教えることができるようになり、大学院生、日本語学校の非常勤講師、日本語教師養成講座の講師と3足の草鞋を履いていました。

大学院の後は海外へ行こうかと考えていたのですが、大学院の指導教官に留学生センターに来てもらえないかと言っていただき、そこで教えることになりました。

日本語教育から離れた時期に要約筆記者の勉強を

――その後はずっと大学などで教えられていたのですか。

いや、それが違うんです。2006年に大学院を卒業し、2008年に結婚して長男を出産しました。子どもが生まれてからも仕事をしていたのですが、夫の転勤で京都の北部に行くことになり、交通の便が悪くてそこから仕事を続けることができなくなりました。大学の夏期プログラムだけは行っていましたが、2015年に今度は鹿児島に転勤になったので、それもできなくなりました。

務めていた大学の留学生センターの先生に、電話で「日本語教育は私のすべてです。でもそれを続けることができないのが悲しいし、悔しい」と言ったことを覚えています。先生は「今は状況として日本語を教えられないかもしれないけど、絶対に火は消さないで。小さい火でもいいから続けて」とおっしゃってくださって、それをずっと頭に置いて、子育てをしながら、勉強会に行ったりアンテナを張ったりしていました。

――要約筆記者の勉強をされたのはその頃ですか。

京都の北部にいた頃からです。最初は手話通訳者の勉強をしていたんです。でも私には向いていなかった。なかなか手話が覚えられなくて。そうしたら知り合いに「要約筆記」というのがあるよって教えてもらったんです。

手話は、ろうの人に情報を伝える方法だけれども、要約筆記は中途失聴者や難聴者を対象にして行う情報保障です。ろうコミュニティに入っていなくて手話が分からない人は孤独になりがちなんです。そういう方たちのために、講演会や会議などで話された内容をまとめて書いたり、パソコンに入力してモニターに文章を上げていく仕事です。

これなら、日本語教師の経験から向いているかもしれないと思って、要約筆記者のための養成講座に通いました。これは「意志疎通支援事業」と言う国の事業で、実際には市や県などの自治体が養成講座を行っています。その後、要約筆記者の試験に合格して現在、週末は要約筆記者の活動を行っています。

日本語教師として復帰

――現在は関西に戻られて、大学で日本語も教えられているのですね。

そうですね。やっぱり日本語も教えたいので、大学の留学生に日本語を、オンラインの養成講座で音声学も教えています。2020年にコロナで大学が休講になった時、阪神大震災の時に何も動けなかった自分を思い出したんです。だから大学に行けなくて不安で戸惑っている留学生への日本語オンライン授業もすごくがんばろうと思いました。そして、オンライン授業の試行錯誤を綴った「オンライン日本語教師はじめの一歩」というFacebookページを作りました。オンライン授業で大変な思いをされている日本語の先生たちに伝えたくて。このページ開設のおかげで知り合いも増え、講演会に呼んでいただくようにもなりました。また、コロナ禍で時間ができたので、何か勉強したいと思い、失語症者会話パートナーの養成講座を受講しました。

この会話パートナーも意思疎通支援事業の一つです。現在は、平日は大学で留学生に日本語を教え、週末は要約筆記や失語症者への会話パートナーをして、言語に困りごとを持っている日本人の方々をサポートしています。要約筆記の現場では手話通訳者と、会話パートナーの現場では言語聴覚士と、つまり言語のプロたちと仕事をします。難聴者の方は孤立することが多く、要約筆記が耳と口の代わりになることで、ことばに触れて社会参加ができ、とても嬉しそうにされます。失語症者の中にはうまく発声できない方も多く、震えながら発声しようとするそこに私はその人の「ことば」を感じます。どちらの仕事もとても奥深くやりがいがあります。

――困っている人を支援したいというのは、やはり阪神大震災のときの影響があるのでしょうか。

そうですね。あの経験は一番根幹にあると思います。サポートできなかったという思いがずっとあります。自分は日本語学習者というより、言語マイノリティの人をサポートしたいんだなと思っています。

学習者の多様性を受け止めることのできる教師になってほしい

――すでにたくさんのことをやっていらっしゃいますが、これからやっていきたいことは?

留学生に対する大学の授業はこれからも続けていきたいです。

それから興味があるところでは日本語教育における市民教育です。ライフワークとしては言語マイノリティだけでなく、様々な特性を持ったマイノリティへの支援をやっていきたいです。マイノリティのことを社会の多数派の人に橋渡しできるようなことなどです。私にはディスレクシア(発達性読み書き障害)の息子がいます。実は発達障害関係の資格も取ったんです。

要約筆記、失語症者への会話パートナー、ディスレクシア、発達障害などについてみなさんにお伝えできることがあると思います。日本語学習者の中にもディスレクシアの人がいますし、また性的マイノリティの方もいます。日本語教師の先生方に対して講座ということでなくても、お話したり一緒に考えたりする機会を作れたらと思っています。

――これから日本語教師になりたい人に一言お願いします。

学習者は学び方も特性も性格も一人一人違います。学習者の多様性をそのまま受け止めてほしいです。

Facebook 「オンライン日本語教師 はじめの一歩」

取材を終えて

京谷さんは本当にたくさんのことを勉強されていて驚くばかりなのですが、どうしてそんなに? と伺ったら、お母様から「やりたいと思ったときにやらなきゃだめ」と教わったそうです。特に女性はライフステージによって、いつかやろうと思っていても、「いつか」はない、だから思い立った時にということ。心に刻みたい言葉です。

取材・執筆:仲山淳子

流通業界で働いた後、日本語教師となって約30年。7年前よりフリーランス教師として活動。

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