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フリーランスの日本語教師として働く―小山暁子さん1 日本語教師への道のり

フリーランス日本語教師として活躍中の小山暁子さんのコラムを全3回でお届けしていきます。2023年9月に発売したご著書『ビジネス日本語 教え方&働き方ガイド』(アルク、共著)の中でもフリーランスの日本語教師としての働き方をご自身の経験から惜しみなく執筆してくださいました。第1回目はフリーランスの日本語教師として働くまでです。

特に就きたい仕事がないまま就職

日本語教師になったのは、今から約40年前、フリーランスになる5年前でした。私の場合は、日本語教師という仕事にたどり着くまでにいくつもの仕事をしてきたのですが、日本語教師になったのも、他の仕事と同じように好奇心からで、面白そうだったら後先考えずやってみようと走り始める、思い立ったらまず試してみずにいられない生来の私の性格からです。自分に合わなければいつだって辞めて、他を探せばいいと思うのは若気の至りもあるのかもしれませんが。

米軍基地の街で育ったこともあり、私の日常に外国人や外国文化があふれていたからか、特に外国に憧れを抱くこともない子ども時代を過ごしました。高校生のとき、基地内で近いし条件もいいからとベビーシッターのアルバイトをしたときに、英語がほんのちょっと話せることで時給を上げてもらい「英語は便利な道具だ」と感じましたが、語学としての英語には特に興味を感じませんでした。アルバイト先のアメリカ人家庭で奥様方に基地の外で買い物などに役立つ日本語のフレーズや数の数え方を教えたりしたのが、外国人に日本語を教えた最初の経験でしたが、当時は、日本語教師という職業があることも知りませんでしたし、それを職業にするなんて考えもしませんでした。中学時代にはブラスバンド部に明け暮れ、高校時代にはワンダーフォーゲル部で山登りに夢中になっていました。学生の本分は叱られない程度に、興味のあることにのめり込む性格のまま、高校を卒業した私は、進学して学びたいこともなく、かといって、仕事に生きがいを求めるでもなく、銀行員として支店の営業職に就き、次にのめり込むことを探すつもりでした。

意外にも面白かった銀行員―そしていくつもの仕事に携わる

しかし、期待していなかったことでしたが仕事は意外にも面白かったのです。窓口に来たお客さんとご家族の話をして、お子さんが生まれたのを機に積立預金していただくとか営業職として褒められることもありました。反対に急の出費があるからと定期預金の中途解約に来たお客さんの要望を二つ返事で受け入れて上司に叱られたりしても、「お客さんが必要だから自分のお金を中途解約するのだから、それを渋ったら、もうウチには預金してくれませんよ。長い目で考えればウチにとってもいいことだと思います」なんて意見する生意気な小娘でしたが、叱るときにまず褒めてから理由を述べて叱ってくれたり、最後には大笑いしてくれたりするような粋な上司たちに、短い期間でしたが育ててもらったことを今では感謝しています。家庭の事情で2年ちょっとしか勤めなかったのですが、いまだにその上司たちとは2年に1度ほどお会いしています。

家庭の事情というのは、父が体調を崩し、家族の生活が私の肩にかかってきたのです。20歳そこそこの私ができて家族を養える仕事は喫茶店経営ぐらいしかないだろうと借金をして開店することにしました。喫茶店も見るとやるとは大違いでいろいろありましたが、なんとか軌道に乗り、父も回復し、私が自由の身になった頃、店のお客さんで海外と取引している企業の社長が店で私が英語で電話応対しているのを見て、ウチの秘書をしないかともちかけてくれました。

秘書といっても社長室で主にアメリカの取引先からの電話を取り次いだり、来客にお茶を出したりするくらいの仕事で退屈していましたから、社長が「これからの人は外国人と対等にやり合える語学力が必要だ」と道楽で始めた英会話サロンで英語ネイティブのスタッフの採用と管理、経営も任せてもらうことになり、また外国人との縁ができました。思えば、私の周りにはいつも外国人がいました。

「悔しさ」から日本語教師養成講座へ通うことに

日本語教師養成講座に通うことになったのも、職業にするという目的があったのではなく、スタッフのひとりにアメリカ人留学生がいて大学で習っている日本語の文法の質問をされたときに答えられなかったことが情けなかったからです。その留学生が翌日、大学で日本語の先生にしっかり習ってきて、気持ちよさそうに教えてくれたのですが、自国の言葉なのに外国人に教えられたということが日本人として悔しかった、それだけの理由で、街で「日本語教師養成コース」の看板を見つけた時にはすぐ入学していました。日本語教師になろうなんて露ほども思っていませんでした。その留学生スタッフに今度聞かれたらカッコよく教えてやろうなんてリベンジのようなことを考えていたのですが、外国語としての日本語の勉強してみると、とても面白かったんです。

日本語教師という仕事にも少しだけ興味が湧き、募集があった日本語学校で飽きるまでやってみようと非常勤として働きました。養成講座の同期たちが日本語教師になりたいと切実に思っている中、こんな私が不真面目な動機で教師でいてはいけないのではないかとも思っていましたが、次は、誘われるまま、総合語学学校で日本語科の主任というようなポジションで働くことになりました。

その後、学院長が代替わりし、その経営方針に違和感を覚え、またもや後先考えずに辞めてしまいました。しかし、この頃には、学習者がどんどん上達していく姿にやりがいのようなものを感じ始めていたので、日本語教育能力検定試験に合格したタイミングでフリーランスを名乗ることにしました。ちょうど大学や大学院で日本語教育の学部が増えてきた頃だったので、遅かれ早かれ高卒の私を雇ってくれる学校はなくなるだろうと思ったからです。

フリーランスの日本語教師として手探りの日々

今から30年以上も前のことで、当時はフリーランスで日本語を教えていくという考えが珍しかったようですが、以前教えた学習者たちの紹介で、ヨーロッパでホテル経営を始めた不動産会社の依頼が入り、企業内研修で長期出張してきたフランス人ホテルマンたちに教えることになりました。市販の日本語教材にはホテルに特化したテキストが見当たらなかったので、元ホテルマンのOJT担当者と一緒に教材を手作りしながらのレッスンでした。ホテルマンの彼らが帰国後、日本人観光客のお客様相手にどんな仕事をしなければならないか、どのように話す必要があるかをもとに課題遂行型のレッスンをし、彼らが日々、できること(can-do)を増やしていくというものでした。

やっとひらがなが読めるくらいの初心者だったので自然な発音ができるように、ルビ代わりにローマ字をつけ、イントネーションの⤴や⤵をつけるようなものでしたが、日本語と発音の共通点が多いフランス人だったせいか、やわらかく親しみがもてる日本語が話せるようになりました。その企業とはその後、数年、契約更新してくれましたが、その他にも取引先や受講者の知り合いを紹介してもらったりして、徐々にクライアントが増えていきました。

最近、すごくビックリしたことがありました。ある機関主催の日本語教師対象のオンラインワークショップで海外から受講してくれた方が私の教え方やレディネス・インタビューにとても近いものを披露してくれたのです。その後、彼女とFacebookで繋がり、種明かししてくれました。なんと、あの当時、紹介されたクライアント企業で教えていた方の奥様だったのです。彼女は結婚と共にご主人の国に渡り日本語教師になったそうです。ご主人から「日本語教師をするなら、あきこのノートがあるよ」と私の授業を記録したものを渡されたそうです。ご主人が25年以上もノートをもっていてくれたことに感激しました。ついでに二日酔いして授業に遅れていった若かりし日の私の武勇伝もしっかり伝わっていましたが、四半世紀の時を超え、今度は奥様とも繋がりました。

出逢いというのは、不思議なものです。どれも、偶然ではなく、何か大きなものに決められているのではないかと感じます。人ももちろん、仕事との出逢いもです。思い起こすと、高校3年生のとき、適性テストを受けた後で、進路指導の先生に「君は教師になったらいいと思う」と言われた私は「ありえない」と答えました。すると、その先生が次に言った言葉が「何にしても人と関わる仕事が向いていると結果に出ている」と言いました。何十年もあとに同窓会でその先生にお会いした時、「やっぱり」と笑われました。大志も抱かず始めた日本語教師という仕事に出逢えたこと、多くの人に助けられてここまで続けてこられたことに、今では感謝しています。

第2回では、フリーランスとして働き始めた小山さんが、壁がありつつもチャンスをつかんでいく様子、仕事を続けるうえでの「クライアントファースト」の信念などについてお送りします。

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